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東京六大学野球の面白さ 2

法大・江川卓に土


作新学院高校時代には甲子園で優勝の二文字をついに手にすることの
なかった江川でした。慶應大学入試には内部の若手教員の反対もあっ
てか実質的なスポーツ入学による受験には落ちました。これは、正式
なスポーツ推薦入学が無かったところに、合格発表日に掲示板まで自
分の番号を探しに行ったところをメディアに映されてしまったために、
時間をおいて大学側も内内に合格証書を発行できなかったためだと・・・
巷間囁かれることもあります。この辺り、知るのは本人と当時関わり
のあった人々だけだというところでしょうか。


           江川卓                             
            作新時代の江川卓

次に選んだのが法政大学でした。 法政を選んだのは “鬼の島岡御大” 控える明治の練習風景を見学した後の当然の決断でした。


“黒雲なびく駿河台”とも揶揄された 当時の土の匂いの残る明治の精 神野球は、江川には受け付けないものでした。 法政が松永玲一監督ら の指導もあってか 合理的な野球をするイメージを持たれていたことも 確かにありました。 こぼれ話として、島岡監督は東大相手には “スマートな野球”を行う ことを心掛けていたそうです。良いか悪いかは別として、 “帝大”の 威光が残る昔気質の人間そのままでした。 ついでに、この島岡御大と比肩しうる人物としては、 近畿大の松田博 明元監督を挙げてもいいと思います。 私費をも持ち出して近大野球部 の基礎を築かれた松田さん、 1988年に近大が東北福祉大を倒して大学 選手権で 初優勝を遂げたのは月曜日、神宮と至近の中学校に通ってい た当時中学生の身に過ぎなかった私が授業をさぼって友人ら数人で観戦 していました。 バックネット裏から思わず「おめでとうございます!」と声をかけた際 に、この若僧相手に深深と頭を下げられたことが 未だ記憶に焼き付い ては時々蘇ってきます。 どうしても六大学野球でプレーをしたかった江川は 法大の第二部法学 部政治学科の受験日が残っていたため、受験して合格後 即座に入学。 先輩らの理不尽ともとれるシゴキもあったようですが、 “花の昭和49 年組” と括られた植松精一(静岡高校)や金光興二(広島商業)ら他 の甲子園出場組らと、1年次から颯爽と神宮の舞台でデビューすること となりました。


        江川卓(左上)、丸山清光(左下)、島岡御大(右)         島岡江川丸山の3人
    

そんな江川にはじめて“土”をつけたのが、あの東大でした。 バット を短く持ち、まるで甲子園で 銚子商業や広島商業がエンドランやバス ターでバットを短くもって 速球にタイミングを合わせてきたやり方そ のままでしたが、東大の山本隆樹投手も 1974年秋、当時のプロ予備軍 がズラッと並ぶ法政相手に2点に抑えこみました。この時、江川から六 大学初ホーマーを放ったのが渋沢稔 (上田高校、のち興銀トレーダー) 。渋沢は、次の打席でも江川からセンター前ヒットを放ちました。 ちなみに江川法政に2季連続土をつけて明治が二連覇した 1975年当時の エースピッチャー 丸山清光 (1976年卒、朝日新聞)投手と上田高の同 期生。ただし、この年の江川卓は右肩の疲労骨折を負いながらリーグ戦 に登板していたことを後に明かしています。 当然この無理がたたって、 巨人時代も後遺症となって残りました。 現役東大の下級生の鈴木翔太投手(時習館高校)などが、 小気味のい いピッチングを見せていますが、 東大のピッチャーは球速が落ちるの で、適当に投球が変化して散ってしまいタイミングがとれないだけだ としばしば陰口を叩かれることもありますが、当時法大は、 “花の49 年組”の江川や植松、楠原基(広島商業)などのほか、2年生に高代延 博や佐々木正行など 日本ハムなどのプロに進みレギュラーや準レギュ ラーを張っていた強打者が居並ぶ打線相手にした、 インパクトのある 勝利は、一言で快挙だといえるのではないでしょうか。 このようにバスター戦法でなんとか接戦か勝ちにもっていくことで、か ろうじて江川を倒すことも不可能ではなかったのですが、 他の残り5大 学には、メンツがあったのか、のちの巨人でバッテリーを組んだ山倉や、 阪神の前監督にまで上り詰めた岡田などの早大打線は、最終学年までつ いに何ら決定打となる攻略法を見つけられずに、江川が山中正竹に次ぐ 六大学野球2位となる勝ち星数を挙げることに結果的に “多大な貢献” を果たすことになりました。 この時代あたりから、日比谷高出身の小笠原文也監督、六大学野球の現 役時代はラストバッターを打っていましたが、富士鉄釜石を経て監督を 引き受けてからはメキメキと東大の力量を引上げ、4位、5位と善戦しま した。 これが1981年の早大相手に2完封勝利を上げた“赤門旋風” につながっ ていきます。 一方、当時の早大が特別に弱かったわけではなく、 教育学部で 体育専 攻が設けられておりまして、 そこからは有名どころでは 阪神の岡田彰 布らが巣立っています。 この弱小時代でも、 阿久沢毅と共に甲子園を 湧かせた 桐生高校の木暮洋投手が浪人を経て入学、 なにより夏の甲子 園で 1年・荒木大輔投手の活躍で準優勝した時の早実のスラッガー・小 山寛陽ら 附属組が揃って入学しました。 ちなみにこの早実準優勝時の主将・栗林友一は、大先輩・宮井勝成監督 率いる中央大に入学。東都でデビューしますが、怪我もあって次第にベ ンチ入りからも遠ざかってゆくことになりました。 少し後には石井浩郎(秋田高校)、 大森剛との対戦で 石井連蔵監督か らの敬遠四球の指示でマウンド上で涙を見せた小宮山悟投手 (芝浦工 大柏から2浪入学) らの大器晩成組も入学。 ライバル慶應も この時代、 PL・清原と並ぶ逸材と呼ばれた 大森剛 (高松商業)が存在感を示し、 のちに巨人などのドラフト1位 指名候補を蹴って就職してしまった志村 亮(桐蔭学園)、 大学時代から頭角を現し、のちに 広島や西武で活躍 した鈴木哲(福島高校から2浪) の二枚看板投手が光っていました。

      
             
       平成に入ってからの慶應といえば、個人的には、1993年秋に野村克也の 息子である明大・野村克則(堀越 - 明大 - 楽天など)と同率首位打者 に輝いた山下圭(日比谷 - 慶大 )が鮮烈に記憶に残っています。 クローズドスタンスから打ちにいったボールが左中間深くにライナー性 で飛んでいく様は天性の中距離砲としての資質の高さを感じさせました が、 日航パイロットになったようで社会人では野球はやられていなかっ たようです。 この六大学野球人気が下降していたといわれた時代においても、 これ らの資質に恵まれた選手が 各年度各大学に散らばり、 そのキラリと光 る潜在力やオーラで神宮を湧かせておりました。

六大学のスターたち


江川卓、それにハンカチ王子こと斎藤佑樹らは大学入学前からスター
としての階梯を上りつめ、神宮でプレーをはじめたことで人気がその
度に沸騰しましたが、それをもって六大学野球の人気云々の話をする
のはおこがましいという声があります。

たしかに過去を振り返ると、 戦前の大学野球草創期の早慶両校の名選
手たちから、 かつての立教・長嶋茂雄にしても、明治・星野仙一、法
政・田淵幸一、山本浩二 らにしても当初よりスター選手だったわけで
はありませんでした。
もちろん戦前から戦後の長嶋茂雄の登場の頃までは、 六大学野球がい
わば “プロ”と見做されていた時代だったので、現代のそれと単純に
対比はできません。 今でいう“栄養費”も各方面から半端なく貰って
いたようで、 六大学野球のスターは今のプロ野球選手のスターと同じ
扱いをされていました。 六大学野球でプレーをするためハワイから渡
ってきた一青年に過ぎなかった法政・若林忠志投手は、 当時の東北一
帯の豪農で大地主・本間家の女性と学生結婚をして隠田 (今の原宿)
に居を構えていました。 こうした例は三原脩や水原茂など他の六大学
のスター選手にも見られました。


                       
      vs大リーグ選抜での早大・伊達正男投手 (神宮球場)

早大の伊達正男は 小川正太郎の故障でキャッチャーから急遽投手にな り、 ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらの大リーガー相手に早大が 6回1失点であわや!を思わせ、 後年の全日本メンバーとしての試合で も5失点、続いて同様に6失点と好投して試合を作り、ルー・ゲーリッ グを通して当時のヤンキースにも誘われました。 陽がピッチャーズマウンド方向から打席に差し込む草薙球場で、 大リ ーグ相手にあわやの好投をした沢村栄治が現代でも一人クローズアッ プされるのは、それは現代の日本プロ野球の元祖である 職業野球の巨 人に入団したからで、いわば今の巨人や阪神の彼らの先輩だから。 ただ当時の巨人軍や南海軍 をはじめとする職業野球団は六大学野球の 力の遥か下をいってました。 当時のプロ野球は六大学野球の帝大を除 く各野球部に勝てなかったのです。 その格差は実は長嶋時代以降まで 続きます。 ちなみに六大学各校相手にまずまずの強さを発揮したのが、 中央大や 日大・専大といった東都勢ですが、 帝大を除く五校を完膚なきまでに なぎ倒したのは関西六大学野球 (現・関西学生野球)の関大・西村幸 生投手ただ一人だけでした。但し、関六の立命館大などはこの当時早大 相手に20点差、30点差もの大差をつけられ敗れていたように、その力の 差は歴然としていました。

         宮武三郎若林忠志                        
          慶應大学当時の宮武三郎
            法政大学当時の若林忠志(右)

上述のように戦前から長嶋の頃までは 六大学が “プロ” だったので、 実際に沢村以上の力量の持ち主として、 伊達正男や若林忠志 (法大)、 宮武三郎(慶大)をはじめ、六大学結成以前の大正時代でも大リーガ ー相手に4失点の谷口五郎(早大)、 大リーガー相手に3失点で投げ勝 った小野三千麿(慶大)‥が挙げられます。 若林や宮武などはその後 にキワモノとされたプロ野球の前身の職業野球にも足を踏み入れ、そ れぞれ阪神軍や阪急軍などに入団はします。 入団はしますが、片手間に監督やコーチを引き受け、 気が向いたら選 手をやっていた感が否めません。 それでも若林忠志などは、練習もさ ほどしていないのに六大学在籍当時以上の大活躍をします。 立教監督 時代に「地獄(鬼)の千本ノック」で長嶋らを鍛え抜いた砂押邦信は、 その後、国鉄スワローズ(現・ヤクルトスワローズ)監督に就任します。


              早慶の面々
      左上から下へ 松井栄造、末吉俊信・宮原実のバッテリー、岡田彰布
         中段上から山下実、高橋由伸、木暮洋
         右上から藤田元司、別当薫、志村亮
        早慶両校の面々

プロ野球に慣れた現代人の目からはなかなか理解できないことで、当時 のスポーツファンや、また彼ら自身も当然のように思っていたことなの ですが、彼らの球歴は六大学野球当時がもっとも光っていました。現代 のプロ野球中心の球史では、 若林などを除いてこうした選手たちが あ まり振り返られることもありません。 ただ、 個人のその持てる“実力” とともに独特の“オーラ”や“存在 感”で、 六大学時代から自然と目立った扱いをメディア等にされるよ うになっていったのは長嶋以降の六大学でも同じだったはずです。

          本屋敷・杉浦・長嶋の立大3羽ガラス
        本屋敷・杉浦・長嶋の立大3羽ガラス

長嶋茂雄は大リーグの派手なプレーを試合中に何度かやっていたら 学生 野球の父・飛田穂洲氏に怒られたようですが、 こうした個性的プレイが 六大学での記録以上に記憶として語られ、 長嶋の巨人時代の不動の人気 につながっていったといえます。 現在では他の大学野球リーグ戦のレベルの相対的向上もあって、 六大学 や東都などとその他リーグ戦との間のレベル面での 力の均衡がもたらさ れつつあるように見えます。 時に地方の大学リーグ校に大負けしたりす ることもあります。

    
1990年春 久方ぶりの早慶戦でのV決戦。神宮には人が入り切れなかった。
この時の早大は主戦・市島徹(鎌倉高)に甲子園準優勝の1年投手・大越基(仙台育英高)、甲子園最多安打
保持者・水口栄二(松山商)らを擁するも、大学選手権では東北福祉大に0−1、4番・斎藤慎太郎(秀明高)
のあわやホームラン性のヒット1本だけの完封負けを喫した。


かつては大学への進学率自体が低かったことから 東京六大学野球やら東 都大学、関西六大学(現 関西学生野球)などのリーグ加盟校が一際浮き 上がって見えていたことも事実ですが、 ただ、その当時と現在の六大学 や東都などが力量面で 大きく見劣りするというわけではないことは、ヤ クルトのリードオフマン・青木宣親選手や鳥谷敬、和田毅、越智大祐らの 早大組に、中日 − ブレ−ブスに移った川上憲伸、六大学ではライバル川 上を打ち込んでいた高橋由伸‥ らの活躍をみればお分かりになるかと思 います。

         早慶戦での鳥谷敬
           早慶戦での鳥谷敬

東京六大学野球はもちろん、東都大学野球にしても甲子園の舞台を独り占 めにした興南高の島袋洋奨投手は中央大に入学しました。亜細亜大の東浜 巨投手との“沖縄対決”の投手戦も2011年以降の学生野球の見どころでし ょう。

        六大学野球カードセット
        

         

映画に描かれた六大学の選手たち


最近はリバイバルブームで『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』
が石坂浩二などが出演して『ラストゲーム 最後の早慶戦』と
改題され、近年上映されていました。

この『英霊たちの応援歌』は、1979年の東京12チャンネルの開局15周年かで
制作されたのが原作です。監督は戦争映画の巨匠・岡本喜八。岡本は明治出
身だからか、何がしかの思い入れを込めてこの映画を製作したのがスクリー
ンを通して伝わってくると思います。

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       映画に描かれた海軍予備学生 英霊たちの応援歌

   
このYouTube にアップされている紹介動画の、最初のキャッチボールをし ているグラウンドシーンは1979年の戸塚球場(安部球場)です。解体され るまで戦前からの木製ベンチなど球場設備や球場周辺の面影や風情もその まま残っていました。 戦争映画に付き物の暗さや悲惨さを極力除いて描かれており、最後に予備 学生らが次々と特攻していくなか、主役の秋山信吾 - 三上哲男 の早実出 身のバッテリーの二人らがボールを握って雄叫びをあげながら(実際の特 攻攻撃では突入前に雄叫びを上げることを教育もされていたようです)敵 艦に突入していくシーンなどは涙抜きには見られません。 ちなみにこの映画、途中で恋人(竹下景子)に感化されて野球をやめ、演 劇に入れ込む法政野球部の本田耕一(本田博太郎)、早大に進んだ松井栄 造投手らを擁して岐阜商時代に 夏の甲子園で連覇の栄冠を手にした時のレ ギュラーキャッチャーだった 明大・加藤三郎や早大・近藤清内野手などは 実在の人でした。 他に倉島帝大剣道部主将役は役所広司。早大マネージャーの相田暢一氏( 映画配役では勝野洋)は 平成に入ってからも神宮でお見掛けしましたが、 秋山・三上のバッテリー(永島敏行・中村秀和)のうち三上投手は、戦死 された本橋精一投手をモデルにしていたのではなかったでしょうか。 この映画は1987年の晩秋、真夜中にもテレビで再放送していました。 この時は 後楽園球場が東京ドームに変わり、 早稲田の安部球場も解体が 決定した頃、ちょうど節目の年でもありました。 安部球場閉場を記念した 最後のオール早慶野球戦も、その後夭折した安藤 元博投手や石井連蔵などをゲストに 安部球場の現地実況でテレビ東京が夜 中の録画中継で放映しました。 早稲田は1970年代後半に活躍した向田佳元投手が登場し、この向田や 「早 慶6連戦」時の金沢‥ など、伝統的に下手投げの投手が多かったこと、対し て慶應は、現役でこの試合のマウンドに立った鈴木哲や「早慶6連戦」時の 清沢忠彦らを引き合いに、左投手が多かったことが実況席の話題に。 池田高校が甲子園で 1983年から夏春と制した時の主砲で当時から身体つき が太めだった江上光治が打席に立った際、 実況解説席では、「なぜ今の選 手は太っているのか」 、「今の選手は授業があって(練習に)出てこられ ないようだ」 、「石井連蔵監督の時ならこんな太れないよ」‥などと、現 役にとってはさぞ煩いであろうOBらの掛け合いが テレビの音声を通しては じまっていました。 以下は1987年当時、テレビ東京で放映された安部球場閉場を記念して催され た最後の早慶戦の動画です。
   1987さらば安部球場 (最後の早慶戦) 早稲田大学野球部 / 実況・渡辺謙太郎

          



   

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