間違ってない。
確かに理屈は間違っていない。
間違ってはいないが、それは不味い。


slow down,down,down!



生来、マスタングは面倒くさがりなところがある。
冷静に自己分析し、深く自覚しているのだから本物だ。
『人生はメリハリ』がマスタングのモットーらしい。
端から見ればそれはただ面倒がっているだけにしか見えない。
子供の頃から、口を開けば二言目には「面倒くさい」である。
体力を使いたくない、必要性がない―…場面場面で言葉を変えてはいたが、答えはすべて一つだ。
とりあえずマスタングの半生、きっちり決めるところが少なすぎた。
だから、余計その部分が目立つ。
そんな彼だからこそ、頭の中に「殴り合う」という行為は毛頭なかった。
こちらが取り合わなければいいだけのこと。
マスタングは涼しい顔でやり過ごしていた。
とはいえ、人を殴らない、というわけではない。
やられたのなら倍以上にしてやり返すのが、マスタングの最大限の礼儀である。
もう二度と自分に手出しが出来ないよう、そういう気を起こさないよう完膚なきまでに叩きのめす。
骨の一本や二本は代償として当然だった。
面倒は自分の手で摘み取ってきた。
降りかかる火の粉を払って何が悪いというのか。
殴るときは徹底的に殴る―これもまたメリハリだ。
マスタングはぎゅっと握った右の拳を眺める。
ただ一度だけ、自分から手を出したことがある。
後にも先にも、その一度きりだ。
それは士官学校生の時だった。



「い…―ってぇ」
目の前で口元を押さえうずくまっているのは、自分の親友だった。
殴ったときに切れたらしい。親友の指の隙間から血が覗いている。
マスタングはかすかに震える拳をさらに握りしめ、動揺を隠す。
それを悟られないよう、屹然とした態度で相手を見下ろした。

「冗談はやめろ。―吐き気がする」

吐き捨てるような言葉に、相手が顔を上げる。
ヒューズの目はこちらが思わず怯んでしまうほど鬼気迫っていた。

「冗談で―」

しっかりとした足でヒューズは立ち上がり、すっと拳を握る。
マスタングが身構えたときには、もう遅い。ヒューズの拳が自分の左頬に入っていた。
鈍い音と激しい痛みが同時に襲ってきた。
よろけながらも、マスタングは踏みとどまる。

「―言えるかよ」

普段と変わらぬ彼の口調が、本気なのだとマスタングに伝えていた。
頼むから喚くか怒鳴るか罵るかしてくれ、とマスタングは思った。
その方が突き放しやすい。
ヒューズの激情に流されなくて済む。
それだけは、何があっても避けなければならなかった。
マスタングは奥歯を噛みしめ、ヒューズを睨みつける。
その瞬間、彼の中で決意は出来ている。

ヒューズを拒絶する決意。

だからマスタングは腰を落とし、ヒューズのみぞおちを狙った。
できるだけ一発で昏倒させるためだ。
だが、大した手ごたえはない。内心舌打ちしつつ、マスタングはそのまま左のアッパーをヒューズの顎に入れる。
左にあまり自信はないが、急所を確実に狙えば効果はあるはずだ。
ヒューズの足元がふらつく。

「いい加減にしてくれないか」

マスタングは口の中に血の味が広がっていくのを感じた。
瞼が熱を帯びている。
このまま踵を返してしまえばいいのに、マスタングはそれが出来なかった。
ヒューズが血の混じった唾を吐き捨てる。
それを合図に、体勢を整えたヒューズが反撃してきた。
先のお返しとばかりにマスタングのみぞおち目がけて蹴りを入れる。
ブーツの底の感触をはっきりと感じた。それはさっきの自分の拳よりも数倍重かった。
意思とは裏腹にマスタングが膝をつく。
この男に、勝てやしない。
そんなことは、本能でわかっている。
マスタングはむせながらもなお、ヒューズを睨み上げた。
吐き出したい言葉は頭の中で洪水のようにあふれ出している。
実際は、掠れた息しか出てこなかった。
ヒューズがマスタングの前に屈みこむ。

「……はい。俺の主張は『テメェが欲しい』。テメェの言い分は」

マスタングは自分の額に冷たい銃口が突きつけられている様を想像した。
荒い息を吐きながらも、答える。

「私は……非日常は…非常識も、いらない」

はっきりと、マスタングは言い切った。
ヒューズの眉が馬鹿にするかのように上がる。

「おいおい、自分の本能に従うのが非常識って?」
「時と…場合によりけりだろうが…っ」

気を抜くと、意識を持っていかれそうになる。
さすがヒューズだ。
例え旧知の間柄でも、手加減は一切なしだ。
それに比べて、自分はどうだ。
目の前のヒューズはぴんぴんしているではないか。
これが、自分の甘さなのだ。
拒絶しきれていない。
いっそ潔く意識を手放してしまいたい。

(ああ、もう―……面倒くさい)




その後の記憶はない。
たぶん、考えることを放棄したはずだ。何しろマスタングが気がついたのは、次の日の夜だったのだ。
「戦線離脱」「敵前逃亡」。
軍でよく言うところのそれにあたる。
その言い訳として往々に使われるのが「戦術的退却」だ。
あれから数年経ったが、お互い話題にすることはなかった。

「まぁ俗に言う…若気の至りというところだな」

握った拳を眺め、ぽつり、とマスタングが呟く。
そうやって自分を納得させ、ヒューズをも誤魔化してきた。
『人生はメリハリ』。
だが己の信条に反し、この一件のみが曖昧なまま放置されている。
自分は答えを出さずに終わる。
予感はしていた。
そのことを後悔するかしないかは、定かではないが。

08.6.15



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